他者に認めてもらいたい気持ちの裏側
最近、はまっていることがあります。
それは、自分のことをとにかく認めるということ。
自分で自分をご機嫌にするということは、不機嫌な自分すら無条件に愛しいなと思えるかどうか。
外の環境がどれだけ劣悪でもご機嫌な人は一年後環境が全く変わっているし、
どれだけ恵まれた環境にいてもいつも不機嫌だったなら、それは劣悪な環境と言えるのではないかなと思います。
自分で自分に×をつけてはそんな自分が嫌いだから、と外に求めます。
他人からほめてほしい。しかも、厄介なところで私がほめてほしいところしか受け取りません。
背中がかゆいとして、背中を、他人に掻いてもらうときとよく似てるかなと思います。
とかく、自分のことを察してほしい。。と思っているのが人間です。
かゆいところを察知できる人は稀です。
そして、察知出来てしまうがゆえに依存されます。
果たして、それは良好な関係を築けているといえるでしょうか?
一人一人が自立して、お互いに痒いところを掻き合うのが理想なのではないかなと思います。
認めることに話を戻すと、とにかく自分がどんな自分でも味方でいるだけで他人からの承認はあまり気にしなくなります。
私の場合、コミュニケーションの在り方にもろに出ておりました。
私、承認欲求をゆがんだ形で他人からもらおうとしている。。と気づいたからこそ認める。ということにチャレンジしています。
私の師匠、佐々木浩一の動画でずばり解説してくださっているので良ければご覧ください。